「上筒井から」vol.10(July 2001)

鳥取県知事の講演を聞いて


 「個人補償は財産私有制度に馴染まない」「個人の家は個人の財産、その復興には自助努力が原則。公的資金を個人の財産には投入できない」。
 私を含む大勢の被災者が、苦しい生活再建に個人補償を求める声を挙げたとき、返ってきたのはこんな言葉の数々だった。アメリカや台湾では個人補償的な支給があったと伝えられても、それは外国での出来事。公的資金投入による個人救済は法律違反とでも言わんばかりの行政や政治家たちの姿勢に、「日本では個人補償は叶わない」と信じた人は多かったろう。
 それでもあまりの声の多さにようやく実現した「被災者生活再建支援法」は被災者の実態からほど遠く、また適用にも多くの制限が付けられていた。さらには、むしろこれができたために実質的な個人補償制度を要求しにくくなったという側面さえある。

 2000年10月6日、鳥取県西部地震が起きた。震災から間もなく、いともあっさりと出てきたのが、住宅再建に300万、補修には150万という公的支援による個人補償だった。記事を見たときには、おどろいた。なぜそんなことができるのかと疑問符が飛んだ。
 住宅再建・補修支援の措置は、片山鳥取県知事の決断だった。片山氏がどこかの講演で「個人補償を禁じる法律はない」「復興資金を注ぎ込んで道路や橋が立派になってもそこに住んでいる人がいなくなっては本末転倒」と述べたとも聞いた。この人の話を聞いてみたいと思ったのは、当然だろう。だから、4月に神戸で片山氏をゲストとする震災関連の集会があると知人が知らせてくれた時には、すでに入っていた予定を繰り合わせて、聞きに行った。

 とにかく驚きの連続だった。

 まず現場主義の大切さを説く。現場のことは現場の県や市町村に任せてくれればいいのだと言い切る。「災害があったときに、まず国にお伺いを立て、国が示してくる制度や措置を被災地に当てはめようとするから、現場とズレが生じる。国に期待するのは物心面でのバックアップ」と言う。
さらに鳥取では、知事を初めとする鳥取県の幹部たちが現場を見るため、またなにが必要かを見るために、ヘリコプターで被災地に日参したそうだ。幹部が動くというのは片山氏が就任したときからのスタイルで、従来の「上は下からの報告を待ち、下は上からの指示を待つ」お役所スタイルではなく、幹部が自ら視察に出向き、毎日災害本部に帰ってきて会議をして、どんどん迅速にことを決める。
 そして件の住宅支援策も、避難所でのお年寄りや、実際に被災者と向き合う役場の窓口担当職員とのやりとりから、すなわち当事者の思いや現場の声をじかに聞いてこそ、必要性を実感したのだという。
 「皆さん、地震直後はむしろほがらかでした。1週間後の方が不安は大きくなっていました」。住み慣れた土地を出ていかないといけないのかという不安、「息子が一緒に暮らそうと言ってくれるが、ここにいたい」「でもあの人が出ていくなら私も」というお年寄りの声が、知事に住宅支援の重要性を認識させた。視察先の役所で、話をしたいと呼び出した担当職員の女性は、「人々が何かないかと聞いてくる。何もないとうことをどう説明できるのか」と泣いたそうだ。
 個人補償については当然、公的なものを個人に使うことについての疑問がある。この点についても、「税金はパブリックだから個人に使うものではないというのは見識」としながら「しかし、道や橋ばかりを直しても肝心の住民がいなくなってしまったら、ルール守って地域守らずの笑い話になってしまう」と言われると、「この人は何が本当に大切かということがわかっている」という印象を受ける。公的支援のあり方について、「現場の必要性を踏まえながら政府が常識的に考えていくことが大事、パブリックというルールは常識から外れてきている」とまで明快に言われると、うれしくなる。 仮設にしても「個人の敷地に建ててはいけない、200万円もかけて建てて、またお金をかけて壊さなければならない、おかしいでしょ」と、まさに私たちが阪神大震災の被災地で「おかしいやん」と言い続けたことが、「知事」という職にある人の口からポンポンとでてくるのだ。
 さらに見逃せないのは、人々が、特に高齢者が育んできた生活を大事にしなければという意識だろう。「お年寄りにはそれまでの人間関係や生活リズム、見慣れた光景が大切。お年寄りにとって隔絶はすごいストレスとなり、居住地を変えるのは大変。このまま安心して住める環境を守ってあげたい。」という一連の発言を聞いたときには、この人が阪神大震災の時に兵庫県知事だったら、こちらの復興はどれほど違ったかと思わずにはいられなかった。震災の規模が違うので一概には言えないが、少なくともあれほどの数のお年寄りが、遠い仮設に、さらに住み慣れない復興公営住宅に抽選でバラバラに入れられるということは、避けられたかも知れない。こちらの仮設や復興公営住宅で、どれほどの孤独死がでたことか。当世はやりのコミュニティだが、「はい育てましょう」で育つものではないのだ。
 もっとも住宅再建支援はスムーズに決まったわけではないらしい。
 知事はまず、既存の住宅支援について調べるように指示をした。ところが何も出てこない。兵庫県に聞いてみても、何もない。自力再建のための制度はいくつかあったが、これらは「借りた人への支援」であって「借りられない人への支援」ではない。あるのは建物自体を供給する仮設や復興住宅ばかりだ。
 では個人への支援についてどうかというと、手本がない。兵庫県に訊ねてみると、「政府からそういうことはやってはいけないと言われた」という答えが返ってくる。こんな状態だから、住宅支援をやろうということについては、はじめ役所のみんなもいやがった。しかしこのままでは人口は流出し、地域・集落が崩壊してしまう。何が何でも住宅支援が必要だということは明らかだった。最初は「やれるかやれないか別で考えてみよう」と呼びかけたという。
 政府の反応も冷たかったらしい。知事はあちこちの省庁を回って理解を求めたが、知事の出身省である自治省でさえ、はじめは「できる訳ないでしょ」と言われたそうだ。しかし当時の自治大臣が最終的に「そうですね、やらざるを得ないでしょう」と言ったというのは、よほど片山知事の熱意が大きかったのだろう。もっとも「政府には、支援は無理だろうが、少なくとも妨害しないでほしいと訴えた」と言うから、知事もなかなかしたたかだ。
 ちなみに知事によれば「個人補償をしてはいけない」という法律はない。「それは憲法違反だ」と言った役人がいたので「憲法何条だ?」と聞き返すと、相手は黙ってしまったというのには笑ってしまった。それでも個人支援が動き出したときには、「個人補償ができない」理由となる書類がドサッと届いたり、「財政のルール」や「個人の財産」に関するFAXが次から次へと送られてきたり、あの手この手での圧力はすごかったらしい。さすがに発表前日は不安でよく眠れなかったと知事は笑っていた。
 結局10月17日、実に地震から10日そこそこで、地域での再建を条件に、再建に300万、補修に150万という住宅支援策が発表された。背景には、地震の半年前に公共事業のダム建設を中止、その分が100億円くらい県の財政で浮いていたということもあったという。
 実はこの中止も、片山県政の情報公開のたまものだ。治水に関する事業なのだが、河川敷の整備よりダムのほうが安いという試算についてよくよく担当者に聞いてみると、ダムの建設費140億円というのは昭和47年当時の計算で、今ならおそらく240億円くらい。一方、河川敷の整備は、非常に立派な石を使うという前提で試算していて147億円、これは通常の材料なら30〜40億円。これらの情報を公開して、ダム建設事業は中止となったという。
 今回の震災でも、情報公開は徹底している。会議をする対策本部と同じ部屋に、壁も作らず、メディアが同居していたというのだ。記者たちがいるところで会議をするから過程がオープンになり、発表の段階になってもいちいち了解を取ったり説明をする必要がない。「ときどきは聞かれないように声を低くした」「記者は聞いてないような顔をしながらしっかり聞いている」などと聴衆を笑わせながら、知事はガラス張りの政策決定に自信を見せた。

 首長が違うとこうも違うものかと溜め息が出た。鳥取と阪神淡路とでは、地震の大きさ以外にも、人口の密集する都市部と過疎化の進む地方、死者のありなしという違いがあるだろう。しかし両者の復興政策における決定的な違いは、いかに「被災者のもとの暮らしを大切にするか」「現場の声を汲み上げようとするか」の程度の違いであり、また「国を背景に当事者にもの申す」と「当事者の思いを背景に国に要望する」の差だろう。
 私は西宮市内の比較的大きな避難所で3週間を過ごし、ここでは情報やうわさも割によく入ってきたが、当時の西宮市長が避難者の話を来たという話はとんと聞かなかった。神戸市庁舎では市長室のある階にエレベーターが止まらず、一般市民が市長との面会を求めても叶わなかったと聞いた。任期半ばでいきなり辞意を表明した兵庫県知事は、「復興の足場はできた」「被災者も好意的に判断」というコメントを出し、いかに我々、個々の当事者との認識のズレが大きいかを露呈している。こちらの被災地では、市長にせよ、県知事にせよ、本当に被災者が何を求めているかを見極めよう、さらにそれに応えようという姿勢があったとは、一被災者の立場からすると、残念ながらなかったように思う。

 鳥取被災地での復興は、雪のために工事がむずかしい冬を越して、暖かくなった4月からまた進みはじめ、すでに3分の1から半分が支援金の交付を受けたそうだ。問題は、地元の工務店を優先しているので工務店の数が足らずに順番待ちになっているということで、人口流出はほとんどないという。「一緒に暮らそうと息子が言うが、ここを離れたくない」と言った老人も、「150万も出るならもらわないと損、補修費の残りは出してやると息子が言ってくれた」と、もとの家に住み続けることになった。
 住宅支援施策があれこれ反対を受け、孤立無援かと思った知事にとって一番の励ましになったのは、メディアを通じて伝えられる神戸の被災者からの「支援」の声だったという。「大きな援軍だった。今日はそのお礼を言うためにも来たのです」という言葉には、ちょっと感動した。あれで霞ヶ関の雰囲気が変わり、最後には「いいことをしましたね」とまで言われたそうだ。政府も初めは冷たかったが、年度末特別交付税ではちゃんと鳥取県の台所事情を考慮してくれたとのことだ。

 まだ希望はあるかも知れないと思ってしまった1日だった。
 この講演の記録を見たいと思い、主催者に問い合わせた。記録は今、知事の確認を待っているところだそうだ。発表できる状態になったら冊子にして発行するというので、ぜひ入手したいと思っている。

(玲)


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