「上筒井から」vol.10(July 2001)

被災者生活復興アンケート調査

「問11」抄


 この3月4月、私たち被災者生活復興調査の会提起による「被災者生活復興アンケート調査」を実施しました。対象住宅は、六甲アイランド、御影石第2,新在家南第1,第2,第3,大石東、灘北第2,六甲桜ヶ丘、筒井、HAT神戸脇の浜6号棟、ベルデ名谷、5・6号棟、西神南、民間借上(東灘)等の災害復興住宅が中心で、その他の住宅からも解答が寄せられ、回収件数は、短歌様に認められた「無回答」分を含めると606に上ります。予想外の関心の高さでした。近々、パンフにまとめて公表する予定ですが、ここでは「問11 この震災で、あなたが忘れられない苦しかったこと、うれしかったことは何でしょうか。あなたの思うままに書いて下さい。」に寄せられたメッセージを、残念ながら紙幅の関係上その一部になりますが紹介させていただきます。阪神・淡路大震災における震災史の現在の尖端からのメッセージです。メッセージにはいずれも被災者の孤独が表出されていて、共苦・共感・共闘を!と訴えていると思うのですが、いかがでしょうか。

・風呂に入れなかったこと。食べ物が悪かった。冷たい弁当ばかり食べて、寒いのに水をのんでいた時、着るものがなかった。土間に毛布をしいていたので風邪を引いて病気をつくった。
・震災については突然おこるので何が何だかわからない一瞬の出来事でした。震災がなかったら今頃我が家で又便利のよい場所で楽しく暮らしていると思う。すべてが0になりましたが、時が経つと皆忘れ去られていくのが悲しいし、又忘れたい気持ちが有ります。
・主人を亡くし、一人になった。さびしい。
・震災後、妻の病気と死亡で、震災がなければ幸せだと思う。
・住み慣れた地域に住まれなくなったこと。苦しい心がわかってもらえなかったこと。
・3人の子供達が良く最後迄いやな顔もしないで面倒をみてくれたこと。
・我が家の歴史をなくした。荷物が出せなかった。
・現在でも体調が悪く、前向きに考えようとするのだが、年なのですぐ落ち込んでしまう。
・家を解体に入って、家がなくなるんだなあと思ったら、先のことが不安になってきた。
・震災後、仮設住宅もあたらなく、5ヶ月も学校の避難所で過ごした事。
・家が全壊し、両親が亡くなり、片足も動かなくなり、別れた主人の家族に子供2人と私とで1ヶ月ほどお世話になった。2Fの一室を借りたため、物音一つ立てられず、息を殺していた。足が動くようになった。避難先で自分の家が借りられ、仕事も見つかったことが嬉しかった。さらに3年半後、やっと市営住宅が当たり、姫路から元の灘区に帰って来れた。
・震災1年目2年目より今の方がもっと生活が苦になっている。
・家のないローンはとってもつらいものである。
・震災後に、主人の仕事がなくなったり、病気になって収入がなくなったこと。
・折角生き残れたのに何もかもなくしたので、考えるばかり。それに、震災後、病気が次々と重なって、毎日、病院がよいです。足腰を悪くして、余りひどい時は、ハイヤーで通院する事もあります。それが二人とも病人になってしまい、夜も眠れない日が続くと頭痛の種です。主人がちょっと痴呆のけがあるので、尚更考えざるを得ません。
・義母との関係が少しおかしくなった時。
・私は名古屋の嫁の家でお世話になっていたが、息子夫婦は避難所で苦労したらしいです。仮設がなかなか当選できず、避難所からの勤務は大変だと言っていました。
・仮設での生活6畳間には耐えられますが、隣の嫌がらせに耐えられなかった。
・震災後、愛する子供が亡くなった事です。
・人間関係(特に兄弟に関して)、友人関係、(自分が考えている以上に良くしてくださったこと)、特に弟、又は、親類について(友人と比較して冷たいと感じたこと)−震災後、家族について考えるようになった。
・震災の時は両親と同居しており、今は結婚し、家族も生活も変わってしまった。前に勤めていた会社も倒産(地震のせいではないが)してしまい、今後の両親の事や仕事の事など不安も多い。
・今まで仕事が入っていたのが完全になくなり、収入がなく借金が増えたこと。行政はもっと親身になって考えてほしい。
・5歳の孫が1時間余りも下敷きになって生きて出てきたのに、4時間後に六甲病院で亡くなりました。もっと早く出られたらと思います。其の時、全然知らない人が自分の家の事もかまわずに救助をして下さった事、本当にありがたく一生忘れられません。
・震災で主人が仕事を失い、年が行っているのでなかなか仕事が見つからず、酒におぼて肝硬変になり仕事が出来なくなり、入退院を繰り返している。先々が不安でなりません。
・父親が死亡して満足なお葬式が出来なかった事。仮設もあたらず、5カ所程住む所を変わり、心身共に疲れ果てて、ノイローゼ状態になり、お金もどんどんなくなり、とてもつらい日々を送りました。
・戦争でもあるまいに何時になったら人間らしく暮らせるのかなと・・・・・・
・身体の障害をもつ主人をもち、仮設住宅も復興住宅も全く入れずに困りました。茨城県の妹のところへ主人を預け、私は仕事もやめられずに、六甲小学校から三の宮の事務所に通勤しました。
・体の不自由な主人と義母と子供と4人、狭い仮設住宅での生活が苦しかった。
・タンスの下敷きに。寝たきりの夫となって・・・・・・。
・仕事を無くし、未来が見えなかった時に、友人知人がはげましてくれた事。
・いつまでも精神病に悩まされ、たぶん一生治らないと思う事。
・父親が半身マヒで思うように介護が出来ない。介護保険を使うと生活が苦しくなり、使えない。介護保険は支払っているけど、使えない、このような矛盾はどうすればいいか。
・震災の年の12月に4ヶ月入院して義母90歳の世話をする人がいないので方々に預けて金銭的に困った。
・主人が酒におぼれて何もかもやる気を無くしたこと。
・震災後、まもなく腸閉塞を患い、その後の生活を助けてくれる人がなく、家族はいらないとまで思った。それで同居しないで一人仮設に入り、この住宅があたってここに来ました。一日の食事は全部外食。わびしいものでしたが、今は食事を作ってくれる協力者が出来、毎日が充実していますが、住む部屋がせまいので、少し広い住宅が欲しいと思っています。
・4畳半一間で、入院中の主人を連れて帰れなく、あちこちの教会にお願いしてボランティアさんの協力を得たこと。
・東灘でマンションが全壊し、西宮へ避難して2ヶ月ほどして東灘区へ様子を見に来ると、マンションが平地になっており、家具その他一式パァー、何もかもパァー。
・話し相手がないので一日中口を閉じたまま悩んでいる。
・日々、生きていたことを悔やんでいます。
・病気との闘いで精一杯。入院が多く、楽しいことはなかった。
・二階建ての家で一階に住んでいて、下敷きになり、掘り出されて死の寸前だったけど、病院に運ばれて助かった事、一生忘れません。
・目の前で我が家が焼けていくのを見た時。
・ゴムの仕事がなくなり、元気が出ない。
・仮設住宅で大勢の人と知り合いになったこと。楽しい毎日でした。
・人が皆やさしくなった事が嬉しかった。今は元に戻ってやさしさがないように思う。
・生き埋めによる肉体的・精神的苦痛の後遺症に悩まされている。
・震災の折、腰を打って、現在でも痛い。
・楽しいことはありません。市営に入っても寂しいです。
・仮設住宅にも入れず、公営住宅は抽選でなかなか当たらず、5年目でやっとこの買い物も交通も不便なところに来ました。今も元の所に帰りたいです。
・何もかも全部失い、頭のなかが真っ白になって、どう生きていこうかと思いました。でも、ボランティアの方とか心ある人に良くしていただきました。有り難い事です。
・家族の離ればなれ。
・震災で全焼してしまい、思い出のものがすべて焼き尽くされたこと。
・姉が亡くなったこと。兄が離婚したこと。
・何もかも無くなってしまったこと。でも、二人揃ってケガもせず命が助かったこと。
・失ったものは二度と戻ってこない。震災で受けた心の傷は一生の時間をかけても治らない。

・県外に出て行政が冷たかったこと。県外に出て地元の人の暖かい支援があったこと一番うれしいのは、神戸に帰れたこと。
・助けてもらうまでの心身の苦痛、助けていただいたときのありがたさ。
・体調を崩したこと。わずかな収入がなくなったこと。人間関係のゴタゴタがあったこと。裏切りに遭ったりしたこと。
・苦しかったこと・・・震災のショックで姉を失ったこと
・震災で苦しかったことは、今迄、住み慣れた町を出ること。やっぱりなれた町がいい。
・知らない人にやさしい言葉をかけてもらった事。
・隣人がドアを破ってろうそくを持ってきてくれたり、子供の友人宅が子供を預かってくれた
・ベニヤで火事があったらどうしようか恐かった。1年間眠れなかった。
・猫が行方不明になったことが一番悲しいのと、親類とうまくいかなくなった。本当に一人ぼっになった。
・無回答 八十才 女 獨居 自立願望『これがまあ ついのすみかか てつのはこ あおぞらこいし つちこいし』

(被災者生活復興調査の会・孝)

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 私達は松蔭高校放送部で活動しています。今回、上原さんからお手紙を頂き、復興住宅のアンケート調査に参加させて頂きました。そして、それを元にラジオ番組を大会に向けて制作しました。
 6月3日に行われたNHK杯全国高校放送コンテスト地区予選では入選し、6月17日の県大会へ出場することに決まりました。

 私達はアンケート調査を通して、復興住宅に住む被災者の方にお話しを伺い、6年たった今でも住民の方が日常生活の中で大きな不安を抱えていることを知りました。それを少しでも多くの人に伝えたいと思ったので番組を制作することにしました。
 私達はこのような貴重な体験をさせてくれたUさん、YWCA、そしてその他取材をさせて下さった方々にとても感謝しています。ありがとうございました。

(松蔭高校放送部)


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